2011年11月22日火曜日

石巻の支援活動

今回の報告は、18日(金)、19日(土)の石巻の支援活動ついての報告をします。
石巻の支援活動
 17日(木)に2チームに分かれて、南三陸町と石巻への活動をしましたが、引き続いて18日も物資を運ぶ南三陸チームと石巻のチームに分かれて活動しました。17日に、それぞれのチームが佐野から出発してたので、17日の夜、初めて拠点の仙台バプテスト神学校で会うということになりました。自分は南三陸に17日は石巻チームより遅く行って帰ってきたのですが、先に夕食を食べていた時に会うことになりました。当初、石巻チームのメンバーが、あまり話をせず黙々と夕食をとっていたのでとまどっていたのですが、翌日、自分が石巻への支援をしてわかりました。それは、実に骨の折れる疲れる支援活動で、初日、長旅してすぐ石巻で午後めいっぱい活動をしていたメンバーは、大変疲れていたことでした。
 南三陸と石巻の被災の状況は、まったく異なっています。それは、南三陸ではリアス式の海岸(海岸線が入り組み、山間の湾岸部)に津波が集中的に襲って来たため、集落が根こそぎ破壊され、そのすさまじさは、第二次世界大戦時にB-29によって日本の町が絨毯爆撃にやられた写真と似た光景です。車という車が金属の固まりになってしまっていたり、五階建ての鉄筋コンクリートのマンションが津波に襲われ、屋上に乗用車が乗っかっていたり、三階建ての消防署の屋上に10トントラックがのっかていたりと、すべてが破壊されていました。ですから、支援活動は、高台の避難所や現在は仮設住宅への物資支援と精神的なケアーが働きの中心でした。ガレキの撤去などは自衛隊など専門的な働きとなっています。
 一方、石巻は違います。港や海岸部の地域は同じように更地のような被害ですが、広範な平野部に津波が襲ってきて、平らな地域に津波がなめるように住宅を破壊しています。しかし、町の真ん中に流れる川の土手で津波が止まった地域などもあります。ですから、町の中に入ってきますと、普通の町並みがあり、大きな道路の沿線では、ファミレスや自動車デーラーの店舗や、その後ろに住宅地が広がって、どこに地震の影響があるのだろうかと当初は不思議な気がします。しかし、一歩、横道に入り、海側に近い地域に入りますと、様相は一変します。家という家は建っているけれど、一階部分は柱だけでかろうじて二階部分がその上にあるという家や、新しそうな家の一階部分は壁が全部ないとか、向こう側が見える大きな穴となっている建物ばかりです。工場の倉庫も、八ヶ月経っているいますが、壊れたままになっていたり、大手のスーパも建物はあるけれど、中は何も無い状態。そのような住宅地域に行きました。
 イザヤ58ネットが石巻での活動をしてた当初から、いろいろ支援の内容を指導してくれているサマリタンパースのスタッフのベンソン宣教師が支援先を案内し、内容を指示してくださっています。
 家の復旧活動ですが、4月からこの地域での活動は、津波で壊された家屋や庭などのガレキの撤去やヘドロ除去でした。それは大変な重労働です。床下をはがし、ヘドロをバケツに入れてくみ出す作業でした。
 今回は、床下のヘドロは除去されていて、一階の天井まで津波がきたため、天井の梁や窓枠にこびりついたヘドロやゴミをへらやブラシでとっていくという作業です。隣の家はそれらが終わり、アメリカから来た大工さんのボランティアは床や壁を張っています。ヘドロ除去→家屋内部の洗浄、消毒→床や壁の貼り替えと段階を踏んで一戸一戸時間がかかる修復作業です。私たちが天井や梁のヘドロを丁寧に除去したら、翌週は洗浄、消毒をする予定だそうです。
 まだまだ周囲の家屋は、一階が柱と壁しかない、かろうじて無事だった二階部分に住んでいる家々が並んでおり、また建てて一年しかたっていない一階建てのアパート群は、何も手が着いていず、ゴーストタウンの町の一部のようでした。
 一般のボランティアグループも来て、家屋の修理に取りかかるのですが、あまりにも時間のかかる作業のため、一度来て、修理を途中でやめて帰ってしまうグループもいて、ベンソン宣教師のグループが、忠実に丁寧に家屋の復旧活動をしている状態です。
 半日、脚立にのって天井の梁のヘドロをへらで削り取っていく作業や、トイレの床下をブラシで掃除していく作業は、南三陸町のような家屋がねこそぎ津波でない地域への支援活動とは違う支援活動であることを身をもって体験しました。
 次回は、石巻で忠実に支援と宣教活動をしているキリスト者の活動を報告します。今回は画像がありませんが、次回に掲載したいと思います。

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