2014年12月2日火曜日

2014年の活動

 あっという間に、2014年もクリスマスを控えた12月になりました。思わぬ入院手術が昨年の今頃、あり、その術後の回復を昨年の12月、1月を費やしました。しかし、教会の主な活動をゆっくりとはやってきましたが、東北の支援にチームの一員として復帰するのには10月に、一1年ぶりに南三陸、石巻を訪問することとなりました。 この間、チームを編成し、中川先生、田島先生が変わらぬ支援活動をし続けてきておりました。皆様の変わらないイザヤ58への支援、協力、またボタンティアとしての参加を感謝します。 今年一年の、イザヤ58の東北での支援活動の他に、福音派などの震災関連の大きな集まりにも出席する機会が与えられました。

「第三回東日本大震災神学シンポジウム」開催

2012年に「第一回の東日本大震災神学シンポジウム」が駒込の「女子聖学院クローンン・ホール」で開催されましたが。これは聖学院大学総合研究所、東京基督教大学の主催、アメリカのフラー神学校共催、JEA関係の震災支援組織が加盟しているDRCネットが後援しているもので、「震災の神学的意味」「支援と宣教のあり方」などを共に考える集まりで、2013年3月、そして今年も3月に開催されました。今年は「苦難に寄り添い、前に向かう教会」というテーマでリチャード・マウ博士(フラー神学校校長)を主講師として講演しました。 そして2013年3月にも開催され、2014年2月にも開催されました。そして今年も「第三回東日本大震災神学シンポジウム」が2月に開催され、フラー神学校、ホイートン神学校それぞれ3名の先生が主題講演をしました。特に、講師が「災害は、社会的弱者を露わにする」という言葉は支援を経験して、本当にそうだと思いました。分科会ではイザヤ58の鈴木が発題者の一人として「支援と宣教」について発題させていただきました。

JE宣教フォーラム

2014年9月に東京でJEA宣教委員会主催の「宣教フォーラム」の分科会では、震災支援で多くの支援ネットワークが形成されていることから、今後の地域の教派を超えた地域教会ネットワークの形成について発題させていただきました。

防災ネットワークの形成                         

今、東京の支援関係者の課題は、次回やがてくるであろう東京直下型地震への備えを、東北での支援ネットの経験から地域教会防災ネットの形成が叫ばれ、板橋、西武線沿線などで行政や福祉施設などを巻き込んだ防災ネットワークをクラッシュジャパンがコーディネーターとして活動が始まっており、横浜でも、そのネットワーク形成を目指してのために鈴木も微力ながらすすめております。

イザヤ58の第22次11月支援活動

(11月22日(土)から25日(火))

 すでにイザヤ58の支援ニュースレターで報告されている活動以外の今年の秋以降の活動について報告します。
11月22日(度)から25日(火)に11月支援を実施しました。毎年、この時期の支援は支援している仮設住宅に日用品などをクリスマス・ギフトとして支援していきました。
 当初、参加予定者が何人かおりましたが、健康上の理由などで、代表の鈴木と前回10月支援にも参加していただいた足利教会の万年安頼さんと二人で行くことになりました。今回は初めて祭日を入れての連休で、交通渋滞を予想して、朝6時に出発したのですが、ドライバーが休みなしで一気に運転して仙台には午前中に到着することになりました。

*全期間の行動は以下の通りです。 

l   11月22日(土)午前6時 足利出発
l   午前10時30分 仙台バプテスト神学校着 
l   午前中/ 支援物資購入調達
l  午後/ 塩釜にある保守バプテスト塩釜聖書バプテスト教会を訪問しました。ここには宮城ホープの拠点であり、宮城県の多くの支援関係グループ、教会が参加している宮城センキュネットワークの中心的教会です。イザヤ58ネットは「宮城宣教ネットワーク」には直接参加しておりませんが、YSP21の仙台バプテスト神学校や架け橋(聖協団西仙台教会)の代表の中澤先生などが関わっているので、その情報などは中澤先生経由で受けております。アメリカの宣教団たなどの宣教師たちが支援活動に関わって支援活動をしております。写真1
訪問した塩釜聖書バプテスト教会

l   拠点にさせていただいている仙台バプテスト神学校に宿泊

11月23日(日) 

l   石巻祈りの家の礼拝出席 鈴木が礼拝説教をしました。祈りの家は、メンターである仙台バプテスト神学校校長の森谷先生のソクラテス問答形式の礼拝説教がなされているので、ルカの福音書の「放蕩息子」の話から東北の文化の中で生きる少数者であるキリスト者の生活姿勢について問答させていただきました。


石巻祈りの家による仮設住宅への支援物資のお知らせ
l   午後から度々訪問させていただいている袋谷地東仮設でのお茶っこに参加させていただきました。石巻祈りの家の阿部さんが声かけしてくださり12名ほどの仮設の方々が来てくださいました。その全員が津波で家族や親族を亡くされた方々であったとのことでした。今回の訪問の目的は今年最後の支援訪問となるために、生活日用品を多少なりともj支援したいとのことでしたが、事前に阿部さんに問い合わせたところ、現地のニードを考えるならば、現地に支援物資の購入のお金を現地でつかってもらいたいとの要望があり、それならば一番わかっているのは石巻祈りの家であることを考え、購入物品をお任せして、相当する金額をイアや58が支援することにしました。年末に向かって「お餅」などが喜ばれることを聞いて、それは南三陸も同じではないかと南三陸での物資支援も「切り餅」「醤油」「カイロ」などにすることにしました。祈りの家の阿部代表の上手な話の導きで、とてもなぐやかなお茶っことなりました。石巻は海岸部の住宅が津波でやられましたが、住宅街も平地の中にあり、その住宅街の中にあります。根こそぎ平地の住宅が何もない中で、山の斜面に設置されている仮設が多い南三陸とは趣が異なります。しかし、住宅街と仮設が混在している地域は、また別な意味でその落差を見る思いでした。


11月24日(月)南三陸地域訪問

通い慣れた更地になった周囲に何もない道を海に向かってくるまで進んできいきますと、突然、今まで来た海の景色を一変させるようなピラミッドのような強大な土盛りが忽然と見えてきます。復興住宅のための地盤の嵩上げ工事、津波で崩壊した堤防をさらに高い堤防にするための海岸線の堤防工事で目に付きます。
 地元の人たちの気持ちは一様ではなくほとんどが「なんだか、いいのだか、悪いのだか」という曖昧な答えが戻ってきます。確かに防災を考えた復興住宅は必要、でも今までの生まれ育った故郷の景色とは違う様相になることへの不安や前に進みたいという気持ちが入り混じっているようです。


l  派伝谷仮設

波伝谷に興味を持つ映画監督が震災前から撮影していた
ドキュメントが映画化され各地で上映されております。

自治会長さんの三浦さん震災後、新築再開した漁師料理レストラン「慶明丸」を訪問したと、集会所に行き、支援物資の「切り餅」「カイロ」「醤油」などを小分けにした後に、慶明丸で昼食をいただきました。すでに波伝仮設の近くでは復興住宅の地盤工事も始まり、いずれは映ることになるそうです。仮設の方々が二箇所の復興住宅に分かれるようですが、これまでのコミにティーをどう再創造するか、それはすべての被災地の課題であり、同時にキリスト教会が築いた人間関係がそのコミにティーとどう関わるかが問われるでしょう。
今回訪問して初めて、仮設で4名の高校生に会うことができました。考えてみれば、いつも訪問する時は平日が主であるので、お会いするのは恒例の方が多かったのですが、今回は連休中出会ったため会うことができました。彼らに「何か必要なものはないかい?」と声をかけましたら「いいえ、大丈夫です。ここに来てくれるだけで感謝です」と言われました。

l  山の神平仮設訪問


ここは、私たちが支援活動に関わったのは昨年からでした。YSP21の中澤先生より、お茶っこ支援の要請があり、集会所のお茶や消耗品などの支援などを、中澤先生を通してさせていただいております。20個ほどの小さな仮説ですが、現在は転居されたりして残っているのは10個ほどの仮設で、山間部の中にある小さな仮説です。目立たないため支援物資が行き渡らず、他の大規模な仮設住宅などにいって支援をもらっていたという話を聞いております。年金生活者が多い仮設住宅が少なくありません。そういう方たちは、仮設を出た後の生活不安が解決できず、一歩前に進むことができません。仮設を出るということは、それまであった被災者の仮設住宅にいることによる様々な保護がなくなるわけです。しかし、仕事がない中で、生活設計のめどがたてられないというのが現実です。今後、復興住宅の建設はすすむでしょうが、震災がなければごく普通の生活ができていた方々震災のために取り残される可能性は少なくありません。今回、連休中で仮設に入居している南三陸の町職員お方もお茶っこに参加していただき、復興についての行政の側の考えなども少し聞くことができました。

l  支援物資について

今まで、私たちは出発前に、支援物資を購入するか、支援教会の方々による現物を提供して現地に運ぶ形が中心でしたが、今回は、現地で調達して提供する形にしました。皆様がこの支援活動のために提供してくださった資金をできるだけきめ細かく有効に用いたいと思っております。

震災支援の経験を通しての宣証神学の形成の必要

 イザヤ58の活動は支援活動だけでなく、支援に関わる中で、日本の文化の中でどう福音を文脈化して理解するかが多くの支援関係者の中での神学的な積み上げが求められております。震災前から福音派の中で、福音派のアイデンティティーの再理解が地味な形ですすんでいました。いわゆる「聖書信仰」を標榜する中で、広がりのある福音理解の神学の研鑽の必要が震災以降特に関心が集められております。

 東北の被災地支援の中で、信仰の純粋性を守ることと地域コミにティーとどう関わるのかという福音の文脈化が深く洞察することが問われます。その洞察の中で「福音派の福音理解」の再吟味がいろいろな所で問われはじめています。
 また震災支援の活動は教団教派を超えた協力の地域教会ネットワークがつくられつつあります。第五回日本伝道会議で竿代照夫先生(インマヌエル総合伝道団)は「教派をキリストの肢の一つと捉え、互いの特色と強調点を認め合い、尊敬を払いながら、しかし、協力できる分野で協力していく『協』教派的伝道を模索していくべきでは。私たちが本当の意味で一つとなること(ヨハネ1720)が、伝道の進展の鍵」ということを訴えましたが、東京の都市部ではすでに「防災」というテーマを鍵に行政や福祉施設をまきこんだ教派を超えたネットワークが形成されはじめております。 
私たちの教団も、さらに広がりをもった視点で社会を見つ、語る言葉と同時に社会の中で地域に生きるキリスト者と地域コミにティーとどう関わるかの理解が求められていると思います。
 








2014年5月26日月曜日

「宣証」とは何でないか

 休暇の佐渡の妻の実家でブログアップの原稿を書きました。ちょっと忙しかったのでしばらく間が空いてしまいました。けっこう、教団以外の先生方や宣教団体の方々が読んでくださっている方がいて感謝です。

 さて昨年、南三陸の支援に関わる仙台SBS(仙台バプテスト神学校森谷師)、かけ橋(聖協団、中澤師)、子供支援ネットSOLA(バプテスト教会連合国分寺バプテスト教会、米内師)、南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク(聖協団目黒教会、横山師)、聖協団清瀬教会(菅谷氏)の諸先生と共に、従来の福音宣教の考え方と違う切り口で被災地の宣教を考える宣証ネットワーク、YSP21がスタートしました。
そして、小さいものでありますが、昨年のローザンヌ日本員会宣教シンポジウム、JEA総会シンポジウム、第三回東日本大震災国際神学シンポジウムの分科会で鈴木が理解する宣証について講演させていただきました。

 最近、リバイバルを強調する超教派グループのニュースレターが送られてきました。代表的な先生が巻頭メッセージの中で「宣証」という言葉を使ってメッセージが記されていました。JEAや国際神学シンポジウムで「宣証」という言葉をあえて使用させていただきましたが、接点のないリバイバル系のニュースレターに登場したことには、多少の面映ゆさを感じました。「え、この先生まで使い始めたの?」というのが率直な感想でした。

 しかし、その先生のメッセージを読み、その宣教団体の活動方針やスタイルを考えると、私の理解する「宣証」とちょっと違うかなとも思いました。もちろん、新しい小さな支援ネットグループYSP21が言いだしたことなので、いろいろな方が、それぞれの様々な概念を持つことは当然のことです。YSP21の仲間の中でも森谷流宣証論、中澤流宣証論、米内流宣証論、そして鈴木流宣証論があっていいでしょう。

 いま、盛んに聖学院大学のメインラインの先生方や福音派の中でも「ホーリースティックな福音」とかローザンヌが発信している包括的福音という概念も、それぞれが重なる部分もあれば、ちょっと違う視点があるわけです。そして「宣証」をそのような福音理解の延長の中で理解する方もいるかもしれません。
 「鈴木先生、『宣証』と『宣教』と何が違うのですか、なぜ『宣教』と使わず『宣証』と言うのですか」とよく聞かれます。ちょっと禅問答のような言い方ですが、「『宣教』というと、『救い』というテーマを中心にして語られ、欧米の宣教論の発想がどうしてもついてまわるので、そこから違う視点から理解してもらいたい。そして『宣証』という言葉は支援の現場から始まっています。それぞれの先生の支援や教会の活動の現場から入っているので、目のつけどころがそれぞれ違う部分があります。たとえていうと一つの森に入るのが森谷口から入っていく道、米内口という入り口、中澤竜生口と言われる入り口、そして小さな入り口である鈴木口があるのです。更に「『宣教』は聖書から入ってから対象に向かって働きかけていきますが、『宣証』は対象の現実、生活、社会の課題から入って聖書を出口とするアプローチです」と。本人もわかっているのかハッキリしないトボケタ言い方になっています。
 この辺の禅問答的神学理解はどこからきているかというと私の恩師の大野キリスト教会宣教牧師の中澤啓介先生の「被造物管理の神学」、いわゆる中澤神学の影響があると思います。脱線になりますが、ぜひ中澤師の「被造物管理の神学」に牧師たちは注目していただきたいと思っております。私の「宣証」の理解はそのような神学の影響があることは事実です。

 しかし、いろんな入り口なのですが、おそらく、YSP21の先生方に一つ一つ確認はしておりませんが、それぞれ「宣証」という言葉の使用に同意している先生方の働きや語っていることで共通していることがあるということは私なり推察して言えます。

 それは「『宣証』とは何でないか」ということです。
 第一に、「宣証」は震災支援をきっかけに始まった目に見える教会員の数が増える教会成長論や伝道論ではないということです。
 震災支援の始まった当初、「リバイバルのチャンスだ」という声を聞きました。そういう部分もあるかもしれませんが、そのリバイバルとは何かと考えた時に、震災前の東北の教会が30名前後の教会が平均、あるいは自立さえ困難な教会があったことを考える時、それがたちどころに40名、50名、1000人の教会となる被災地の教会成長論ではないということです。
 JEA総会でシンポジウムなどでの私の講演が終わってから、多くの先輩先生方から、また宣教団体の方から講評や質問をいただきました。その中で、教会成長に熱心な若い先生から「鈴木先生、とても貴重な発題ありがとうございます。これで、さぞかし、先生の教会も成長間違いなしですね」と言われました。思わず苦笑いせずにはいられません。なぜかというと、私どもの教会も、教団も相変わらず牧師に献身する人の減少、教会学校の子どもの減少や教会会計のやりくりに悪戦苦闘しています。余裕で支援活動をしているわけでもないし、「宣証」ということの理解を牧師がもてたからといって、自分の教会の受洗者が震災前に比べて倍になりましたなどとかっこよく報告できるわけではありません。苦労は相変わらずです。要するに「宣証」によってたちどころに教会が倍、倍ゲームのように成長するような魔術的な力はないということです。
 また大きな教会へ、大きな教会へと信徒を動員する「繁栄の神学」に基づいた教会成長論ではないということです。

 第二に、「宣証」の最大関心事は、「何を語るか」から始まっているのではない。まず相手の必要、考えに対してディベートから始めるのではなく、まず相手の生活スタイル、考えをまず尊重することから始まる。キリスト教以外の宗教を断罪視しない。
 今年の2月に、JEA,TCU,聖学院大学、その他支援団体共催の第三回東日本国際神学シンポジウムが開催されました。メインの講師はフラー神学校の教授たちでした。そこで、私も 「宣証」について分科会でお話をさせていただきました。
要点をまとめると
1.    私たちのキリスト教の宣教は欧米の神学の影響を受けている。明治時代以来、キリスト教は西洋の宗教と多くの日本人が考えている。日本の文化脈化で大事な事は、異教社会の中で対話力を持つ事が大事である。
2.    偶像崇拝である日本の宗教を「悪霊」視した考えだけでは対話が成り立たない。
3.    「宣証」は「・・・ism」ではなく「・・・ist」に関心を持つ。これはYSP21の諸先生の問題意識を鈴木流に神学した結果です。アジアの文化の中で福音の真理を問いかけた名著「水牛神学」(著:小山晃佑/教文館)の中にある「仏教(Buddhism)ではなく仏教徒(Buddhist)に」という項目の中で小山師は以下のようなことを述べています。                     
 <仏教徒を理解したければ仏教を研究しなければならないことはいうまでもない。しかしながら我々の究極的な関心は仏教徒を理解することに向けられるべきで、仏教の理解ではない。キリストの福音にとって肝心なことは仏教ではなく、仏教徒である>
4.    東北の素朴な仏教的な信仰を持つ人たちの使う言葉、理解する言葉での中で語られることが大事である。

 「宣証」は他宗教に対してキリスト教を対抗させるためにメッセージを発信するところから始まっていない。ということです。最大関心事は、まず相手の人格に「寄り添う」ことからスタートします。私たちの持っている教えを伝えることから始まるのではなく(注:語らない、伝道しないということではない)、相手の言葉のフレームをまず理解する事から始まります。

 ユダヤ教のラビの問答に「誰もいない森の中で大きな木が折れて倒れた時、その音はするか」というのがあるそうです。みなさんはどう答えるでしょうか。「音はする」でしょうか「音はしない」でしょうか、そしてなぜそう答えますか?
答えは「音はしない」です。「音は誰か聞いている者がいた時に初めて発生する。聞く者がいないなら音はしない」というものです。
 私たちは今まで、伝道するといいながら実はキリスト教会の中だけしか通じない言葉を使ってはいなかったでしょうか。実際に、様々な社会的出来事に対してキリスト教会が発信するメッセージは教会の中ではわかるが、一般社会の中では何も効力のない、また一般社会ではわかりにくい言葉で発信してはいないでしょうか。震災支援は、そのような意味で「キリストの愛」とか「隣人を愛する」というメッセージがわかる言葉として発信できたことではないでしょうか。
 


 「宣証」を使うけど「宣教」は使ってはいけないなどというものではありません。そうではなく、この機会に、我々が福音というものをどう理解しているのか、そしてそれは本当に正しい福音なのかということを、支援活動を通して学んだ本質的なこと考え、どう自らの遣わされている日本の様々な地域にある教会の形成に役立てることが大切ではないかと考えます。
 「宣証」は被災地でも、また私が牧師として奉仕している教会でも、まだ実証されているものではありません。しかし、日本の教会は震災を通して多くのことを問われていると思います。震災支援の経験を一過性のものにしてはならないと考えます。
 同時に、被災地で支援と伝道の関係を神学することは、多くの教会の指導者が感じている日本の伝道の閉塞感を打ち破るためには、今までの当然と思われていた宣教(宣証といいながらこのように宣教という一般的な意味で使用していますが)の方法や福音の理解と提示の枠組みを根本から問い直す機会となればと願っています。
 これだけ多くの犠牲者がでて、これだけ多くの人的、物的材を支援に注ぎながら、その経験から何も学べない教会であるなら、教会は多くのことを問われるであろうと思います。



2014年5月21日水曜日

足下の準備はできているか

あなたの教会は大丈夫ですか?

久しぶりのブログアップです。ちょっとお休みしていて申し訳ありません。ちかぢか「宣証」についての問い合わせがあったことから、それに関してはは後日、ブログで連載します。
 本日は、ぜひ教団の牧師、教会の方々にご一読していただきたい本の紹介です。いのちのことば社で発売されている「危機対応/最初の48時間」です。
 福音伝道教団は群馬県に多くの教会があり、大きな地震があまりないと思いますが、この本は地震だけではなく様々な災害、事故などの危機管理について記してある本です。
 私たちの教会では、3.11以降、独り暮らしの高齢者への対応などを対策を建てております。またクラッシュジャパンなどから、横浜地区での次に必ず来ると思われる首都圏直下型地震への対応ネットワークづくりの協力を要請されて、これから周辺の教会に声をかける予定です。
 福音伝道教団の諸教会でも、ぜひ災害対応の危機管理体制を考えてください。



6月支援活動予定
日程 6月26日(木)から28日(土) 

内容は、石運び+ビニールハウス撤去(南三陸)と仮設訪問(南三陸と石巻)の予定です。

問い合わせはメールにてお願いします。
担当:大泉教会:中川牧師

2014年3月6日木曜日

3.11あの日を忘れてはいけない

また3.11がやってくる

再び、3月11日がやってきます。私たちイザヤ58ネットは2014年度を前にして、今年の活動について3月1日(土)、佐野オリーブ教会(栃木・佐野市)で会議を持ち以下のことを決めました。
  1. 引き続いて南三陸、石巻の支援関係者との連携をもって支援を継続する。
  2. 必要な物資、資金を支援する。
  3. 今まで、福島に関しては様々な事情で支援の対象とはなっていなかったが、今後、支援をできるところからする。まず、実情をブログ、ニュースレターで福島の被災の実情を知らせ、また福島の関係支援グループと連絡を密にする。
  4. 福島の支援のための献金の窓口となる。
  5. 4月に、仙台SBSより南三陸からのボランティア支援要請があるので募集活動をする。
  6. 3月11日の追悼の日が近づいている中で、イザヤ58として祈祷文を作成しブログで発表する。(以下に掲載)

.11東日本大震災の日を忘れないための

我らの祈り

 It is written under the Japanese prayer  in English

震災支援グループ イザヤ58ネット一同
 

イザヤ書58章10~12節


58:10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、
   あなたの暗やみは、真昼のようになる。
 58:11 【主】は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。
   あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。
 58:12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、
   「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。


  天の父なる神さま、いま私たちはあなたを「アバ、父よ」と呼べる恵みとあなたの深い愛に感謝と信頼の信仰によって、祈ります。どうか私たちの祈りに耳を傾け、あなたの恵みと憐れみを注いでください。

 東日本大震災から三年目を迎えようとしています。あの3月11日以来、月日が流れましたが、瓦礫が片付いていながらも今なお被災地において立ちすくんでいる人々がいます。地震により地が揺れ、その生活の土台が崩れ、横からの津波によって町や村、家々がなぎ倒され押し流され、たくさんの尊いいのちが奪われました。そして原発事故による上からのふりそそいだ放射能の影響による健康被害に脅えている人々がいます。またいわれのない風評被害の差別を受けている人々、地域があります。生活のめどの立たない中で、今なお人々の心は傷ついています。

 目に見えるところでは、瓦礫で埋まっていた道路に車が通り、寸断されたガスや電気、水道などのインフラは回復し、少しずつ復興が進んでいるように見えますが、人々の心はなお痛んでいます。愛する家族やかけがえのない人々を失った人々の上に、家や仕事、大切な財産を失った人々の上に、将来の希望を失った人々の上に、また震災からくる絶望から心病む方々のうえにあなたの深いあわれみを豊かにお与えください。心の傷が癒されるように御手を触れてください。

 その一方で、震災はもはや過去の出来事のように忘れ去られようとしています。また被災地から遠く離れているところからくる私たちの忘れやすい私たちの罪、無関心を装う私たちの罪をお赦しください。安全神話の中で事故が起こった原子力発電所を、再び動かそうとする我が国の為政者たちの判断力の中にあなた様の力が介入してくださり、人間的な目先の合理性によってではなく、真に安心と安全な最善なエネルギー政策の施策の道を選ぶことができるように導いてください。

 原子力エネルギーの恩恵を受けながらも、原発事故によって被っている多くの被災地の苦しむ人々、故郷の絆が津波によって断ち切られた人々の痛みを忘れて、自分たちの安寧を考え、それのみを祈りがちな私たちの自己中心の罪をどうぞお赦しください。あなたが慰めを与え続けておられる人々のもとに、私たちもまたとどまり、風化させることなく、彼らと岩手、宮城、福島の教会と共に寄り添い続けることができるように、あなたの愛を与えてください。 

 御子イエスさま、あなたの十字架によって私たちの救いが与えられました。その十字架の贖いを通してあらわされたあなたの愛によって、私たちは慰めを受け、励まされ、今生かされていることを信じています。どうか今なお深い悲しみの中にある人々、疲れ果てている人々、恐れの中にある人々、生きる力を失いかけている人々に、あなたの慰めと、十字架の愛を豊かに注いでくださいますように。

 私たちは、あなたの十字架の苦難の向こうに、復活の勝利があることを知っています。復活の希望があることに信頼しています。どうか傷ついた人々が、絶望した人々が、あなたにある希望に生き、立ち上がることができますように。

 そのために、希望と慰めの福音を託されたすべての教会を祝福してください。福音を語るために遣わされているキリスト者たちを祝福してください。すべてを包み込むいのちのことばを語ることができますように。人を生かす福音を語ることができますように。

 何よりも言葉以上にキリストの愛に生きる姿をあらわす福音を飾る生き方を示すことを通して人々が福音に生きることができるようにしてください。 

 聖霊なる主よ、あなたは、慰め主として、助け主として、私たちの内に住んでいてくださることを感謝します。どうか今、慰めと励ましを必要としている人々、被災地の兄弟姉妹たち、また「世の光」「地の塩」として被災地の支援活動をしているキリスト者たちを励ましてください。

 どうか私たちを遣わしてください。災害を通して、あなた様は社会の弱者を露わにして教会が目を向けるべき方向を指し示してくださいましたので、私たちは祈りをもって、財や具体的な支援の物質をもって、また許されるなら私たち自身をもってあなたが必要とされるところにお遣わしください。あなたの慰めを届ける器として私たちを用いてください。また派遣の霊を注いで被災の現場に向かう思いを与えてください。

 また彼らのために祈りの手を挙げ続け、支援の働きを続けることができますように愛の一致による力を与えてください。

 引き続きイザヤ58を支援する諸教会、キリスト者を祝福してください。またあなたの恵みと愛に結ばれ、心を一つに祈りの手を上げ続け、支援の働きを続けることができますように。共に働く諸教会、諸教団、さまざまな宣教団体、支援ネットワークの働きを祝福し導いてください。その中でイザヤ58を支える諸教会が被災地だけでなく、足下の私たちの町の弱者に寄り添う主の弟子としてよく隣人に仕えることができるようにしてください。そのために必要なすべての能力、財、人材を与えてくださいますように。

私たちは主ご自身が弟子たちに教えてくださった祈りを私たちの祈りとしてささげます。


主の祈り。

天にましますわれらの父よ。

願わくは、御名をあがめさせたまえ。

御国をきたらせたまえ。

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。

われらの日用の糧を今日もあたえたまえ。

われらに罪を犯すものを、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。

われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは、かぎりなくなんじのものなればなり。  アーメン。


 Prayer for the third year 3.11 East Japan great earthquake disaster

Our heavenly Father, we thank you that we have been given the gracious gift of calling you 'Abba, Father' as in faith and thanksgiving we pray, according to your deep love. In your love and compassion, we humbly ask that you listen to our prayers.

It is now the third year since the Great East Japan Earthquake. In the days gone by since that March 11th, as much debris has been hauled away, there are people even now in the affected areas who are still clearing away rubble. As people experienced the shaking of the foundations of their lives due to the earthquake tremors, there was much more terrible loss of life from the tsunami, leveling towns and villages, sweeping away houses and tossing them aside.

There are people who have had their health threatened by the radioactivity of the nuclear power plant accident. And there has been the damage experienced by unwarranted prejudice against people who have had to evacuate. Even as they are in the midst of reconstructing their lives, their hearts are wounded. As far as what is visible, the rubble has been cleared from the roads so that cars may pass, the infrastructure of electrical supply, water supply and so forth has been repaired, and the overall restoration has been continuing. However, people's hearts are still in pain.

On top of losing family members and other irreplaceable friends, many people have lost their homes, possessions and livelihoods, their hope for the future, and have fallen into despair and emotional devastation because of the disaster. Lord, out of your deep compassion, give them in abundance what they need. Touch their wounded hearts with your hand, Lord, and heal them. Help them to put the disaster in the past and help them to forget it and leave it behind. And please forgive those of us who are far away from the affected areas, who have sinned by easily forgetting and being indifferent to their situation.

We ask you, Lord, to intervene and deliver us by your power from the judgment of our country's statesmen as they spread once again the myths of safety following the nuclear power plant accident, and rather than using short-sighted and human rationality, guide us toward choosing truly safe and beneficial energy policies. Lord, we pray that you forgive us for our self-centeredness in ignoring the pain of those affected by the nuclear plant disaster and tsunami, as they have been cut off from their home towns, even as we have benefitted from the nuclear energy produced there. As you, Lord, continue to give comfort, give us your love so that we will work with you and not abandon the churches of Iwate, Miyagi and Fukushima, but hold them closely as you do.

Jesus, Son of God, by your cross you have given us our salvation. By your sacrifice on the cross, we believe we have been given consolation and encouragement in this world. We pray that somehow those who are suffering deep sorrow, those who are suffering great fatigue, those who are in the midst of fear, those who have lost their power to exist, may receive your comfort and be filled with the loved you expressed on the cross. We know that you achieved victory in the resurrection even as you faced the suffering of the cross. We put our trust in the hope which comes from your resurrection. May those who are wounded, those who have lost hope, live in your hope and be able to stand once again. For this purpose, please bless all the churches who have been entrusted with the hope and comfort of the gospel. Please bless all believers who share the gospel. Please give them the words of life that bring everything together under you, Lord. May they be able to share this gospel which brings newness of life. And beyond all words, please cause the living presence of Christ's love to be seen in the lives of those who live in this gospel.

Holy Spirit, as the Comforter, as the Helper sent by the Father, we give thanks that you live inside us. Please encourage believers in their support efforts to bring comfort and encouragement in tsunami-affected areas, to be the "Light of the World" and the "Salt of the Earth," to those needing it, including our brothers and sisters in Christ. Please use us in this way, Lord. 

Using the disaster, Lord, you have exposed the weaknesses of our society, and you are indicating another direction for your church. Use us as vessels of your comfort. Give us an anointing of the sending Spirit to fill the disaster victims where they are. As we continue to raise our hands in prayer on their behalf, give us unity in love as we respond with support assistance. 

Lord, we ask your blessings on those churches and believers who have continued to offer aid through the Isaiah 58 group. bound by your grace and love, praying that they will continue to be of one heart and be able to keep up the support work. We pray for your blessing and guidance on all the work of the various churches, denominations, mission groups and support networks. We ask you to enable those churches who have supported the Isaiah 58 group to continue in serving as disciples not just the disaster victims, but all neighbors in our towns who are weak and needy. We ask that you supply all of the necessary talent, resources and manpower. 

We pray as our prayer the prayer that Jesus himself taught his disciples to pray, saying,
 
Our Father, who art in heaven,
Hallowed be thy Name.
Thy Kingdom come.
Thy will be done in earth,
As it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our trespasses,
As we forgive them that trespass against us.
And lead us not into temptation,
But deliver us from evil.
For thine is the kingdom,
The power, and the glory,
For ever and ever.
Amen.
Translation by Frank Daugherity 

2014年2月8日土曜日

2月のお知らせ

展示コーナーと詩の朗読
(祈りの家阿部氏撮影)
2014年がスタートして、被災地の支援グループの活動は今年もそれぞれの支援方針、活動計画に従ってスタートしております。前回のブログでお知らせしましたが、南三陸での支援活動では、いのちのことば社、南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク他いくつかのグループの協力で「星野富弘詩画展 in 南三陸」も感謝の内に実施することができました。
 来展者も700名を超えたとの報告を受けております。この実施に係わったYSP21の森谷先生、中澤先生、平田姉、またいのちのことば社関係者などの労に感謝したいと思います。詩画展に来られた被災者様は多くのコメントを残してくれました。どのコメントも感謝と励まし、希望に繋がるものでした。とくに、詩画に囲まれたコンサートは、暖かく微笑ましい空間を醸し出してくださったと聞いております。
阿部氏撮影
震災から3年がたとうとしております。時間が経つとどうしても、被災地への関心が薄くなります。また、支援をしている教会も今後の継続についての様々な意見がでることだと思います。



救援と救済のジレンマ

昨年、福島のFCC(福島キリスト教協議会)の先生と支援についての情報交換をした時にお聞きしたことで、また南三陸、石巻の被災地での支援活動をしている関係者からも聞いていることは支援を支える支援者や教会内部から「そろそろ、支援もいいけど自分の教会の伝道の方に」とか「教会の牧会の方に関わってくれ」などと教会の信徒の方に言われる先生方がいるとのことでした。
 岩手、宮城、福島の震災は神戸の震災の時と異なり、復興というものが見えるまでには、長期にわたることでしょう。さらに、福島の原発の事故が加わっている中で、半端な期間ではすまない現実があります。
 被災地に何回か行く中で、「ジレンマ」ということが一つのキーワードとなって心に残ります。
もともと震災前から過疎地域の多かった東北、また特に日本の習俗と密接に関わる生活スタイルを持つ人々の目に映っているキリスト教への理解(偏見も含みますが)と私たちが当然信じて教えられ、教えている福音理解とのギャップ。さまざまなジレンマを目にします。また小さな20人から30人ぐらいの規模の多い日本の教会の現実を見るとき、日本の教会が抱えるジレンマという課題があることが支援を通して知ることができました。
l  被災者の中にある宗教団体から受ける援助へのジレンマ。
  阪神・淡路の震災の時にも様々な宗教団体が支援に関わりましたが、被災者たちのアンケート調査で、宗教団体からの援助を受けることに警戒があることがわかります。特に、オウム真理教の事件以来、一般の人たちの宗教に対する警戒が強いことは周知の事実であります。また援助と宗教活動を取引のようにするのではという警戒心があることも事実でしょう。しかし、その反面、特に今回の東北の震災は阪神・淡路の時と比べものにならない位の甚大な被害を広範囲に受けています。そのような中で、被災者たちの心は将来に対する不安、家族や知人を一瞬のうちに奪われたことからの「生きる意味」「命の意味」などへの問いかけなど物理的な支援では満たされ得ないことを被災者たちも理解しています。
支援の側として、福音を支援の取引のように見えるアプローチに見られないように「寄り添う姿勢」を持つことが肝心です。
l  教会の側の救援と救済のジレンマ
被災地にある教会は東北という習俗が顕著に渾然一体となっている地域の中で、また過疎地も抱えている地域で、もともと教会自体が大きい教会が多いわけではありませんでした。このような中で震災を受け、当初は救援物資の集積場所、被災者たちへの支援物資のハブのような役割を担っていましたが、教会の牧師や信徒の中にもだんだん支援疲れが出てくるのは当然です。彼ら自身が被災している人たちなのです。またちょっと被災地から離れている地域の教会でも、信徒の中には「支援活動もいいが、自分たちの教会の伝道や牧会も・・・」という思いも出てくる中で、今後の救援活動と教会活動の両立に苦心する牧師たちがおります。
 全国的規模の教団などでは、自分たちの教団内の教会が被災地にある場合は、リアルに仲間の教会の支援活動に協力する、援助するという考えが説明しやすい。しかし、イザヤ58を送り出している福音伝道教団などを例にとるなら、北関東という限定された地域にある教会の牧師たちは、自分の教会活動と支援活動との両立に神経を使います。多くの信徒がイザヤ58を通して東北に向かいましたが、残念ながら教団の牧師はそれほど多くはいません。「百聞は一見に如かず」と言います。ぜひ現地を視察していただき、被災者や支援活動の先頭に立っている現地の教会の牧師の声に耳を傾けていただきたいと思いますが自分の教会のことが手一杯と考える先生が多いようです。「教会を牧師が留守にするなんて・・」という声にならない声に気を使います。
 私自身も教団の仲間の牧師から「先生、そんなに東北に関わって、教会は大丈夫ですか?」と問われます。けれど、私は自分の遣わされている横浜の教会での教会形成と東北の支援を通して宣教を考えることを別とは考えられないのです。
 この三年間、自分の教会で訴えてきたことは「信仰義認」や私たちの団体が大切にしている聖化は「自分の救いの達成」「自分の霊的満たし」だけという自己完結的クリスチャンを育てる教理ではないということでした。ジョン・ウェスレーの聖化は内側に向かいながら外にも向かうものであると理解しております。それはどのような聖化論に立つ者であってもそうではないでしょうか。しかし、「自らの霊的満足」「内側と外側の人間に対する態度の使い分け」というものが見え隠れします。教会の中に起こる不祥事に対して、身内の仲間を「かわいそうだ・・・」と思いながら、その不祥事に対しての対社会的責任や問われている責任に大しては無頓着な身内意識が私たちの中に見え隠れしがちなことは、支援を外のことのように考え、教会の働きを別個のものという考え持ってしまうことでも脈絡は一にしているように思われます。 
そのような神学的課題と足元の教会形成を考えた時、具体的には毎年の教会総会で支援活動と自分たちの教会の関係について議題にあげて、牧師が関わることの承認を求めております。また「教会に神学を取り戻す」というテーマで、神学がとかく一部の聖書学者や牧師の専門領域のように見る教会体質の脱皮をはかり、日常の信仰生活の中で、聖書に書かれていることと信仰の原則と現実をどう当てはめるかという問答をすることを教えながら教会の課題克服に微力ながら取り組んでいます。そうでないと異教社会の中に置かれている日本での教会形成の力とはならないでしょう。力のない説教は説教を止めていることと同じように、力のない神学は神の国の学たりえないのではないでしょうか。
 支援活動の経験から、地域の中にある教会の存在の意味、足下の教会の宣教のあり方が問われています。何故教会に対して忠実な福音を信じている信徒が、牧師が被災地に出向くことに消極的なのか。なぜ社会的なことと教会的なこととに意識の乖離があるのか…。なぜ霊的な信仰を求めながら身内に対しては必要以上に甘くなるか、また反対に必要以上に呵責のない批判が飛び交うのか。なぜギリシャ語釈義には一生懸命で恐ろしく正確な聖書解釈をするが、恐ろしく退屈な説教しかできず、個人伝道もできない牧師を育ててしまうのか。
 また偶像崇拝に囲まれている東北での宣教を考える時、土着化とシンクレティズムの関係。他宗教は本当に悪なのか。悪霊なのか。対話の余地はないのかなど。なぜ「聖書信仰」という名の下で福音派は過度な護教主義的に陥るのか。支援活動をしてずっと自問自答していたことでした。
 尊敬している私の神学校の恩師の聖書学者が「数年前に起きたスマトラ沖地震で多くの被害を受けた南アジア、東南アジアのキリスト教会で取り上げられた神学的なテーマは『その時、神は何をしていたか』であった。しかし今、日本の教会に問われていることは『その時、教会は何をしていたのか』である」とおっしゃっていた。
「救援と救済」の神学的理解を牧師自身がしっかり学ぶ必要があると痛感しております。そして、その延長線上に「教会とこの世」「神の国とはただ来世のことだけか」ということが教会に問われていると思われます。キリスト者、教会というコミニティーがこの世とどう関わるのかということが問われているのではと思われます。
 今、多くの心あるキリスト者が感じている日本政府の右傾化に対して教会が何をするのか、神学的に何を考えなければならないかということは震災支援を通してこの世とどう関わるのかという課題と地下水脈のようにつながっていると思うのです。
 今後、その面でもイザヤ58の代表としては「教会とこの世」、「支援を通して足下の宣教をどう考えるのか」、「異教社会の中にある教会」などについての宣教神学的なことの見解を発信して、皆様と神学的問答をしていかないといけないと考えております。そしてそれは象牙の塔の論議ではなく被災地のまっただ中で、また遣わされている地域の現場で神学し、実践していく者として論議し発信したい。もし、そのような場があるならばぜひお招きください。またご意見があればお知らせいただきたい。おおいに紳士的に論議したいと思います。

l  第三回東日本大震災国際シンポジウム開催
支援活動に関わる教会の中にも「救援と救済」について「宣教とは何か」「福音提示のアプローチとは何か」について考えないといけないのではと考えます。その神学的なテーマについてカトリック、メインラインの教会、福音派の支援関係者たちが集まり震災、支援について意見交換するシンポジウムが2月15日(土)、17日(月)に東京お茶の水キリスト教会館で開催されます。ぜひ参加をしましょう。イザヤ58も鈴木が分科会で発題をします。


おわびと報告///イザヤ58 代表 鈴木真

 ここで皆様に知らせをします。このような場で個人的なことをお知らせすることで、このブログを読む方が戸惑いを覚えるのではと逡巡したのですが、公にお詫びをしなければならないことがあるので公表いたします。
 昨年、7月末に人間ドックで検査をうけたところ、潜血反応があるということで前立腺肥大の疑いで、専門医に検査を継続的に受けている最中、10月末に、血尿が大量に出て病院でCT検査をうけたところ左腎臓に癌があり手術しないといけないと告知されました。
 11月に福島で宣教フォーラムの主題講演を依頼されていたので手術を延期できないかと医師に尋ねましたが、急ぐ必要があると言われ、11月5日に急遽、左腎臓の全摘出手術を受けました。経過は良好で11月15日に退院して自宅療養をしておりました。しかし、福島の宣教フォーラムをどたんばでキャンセル事態となりました。誠に申し訳なく思います、関係者にお詫びします。
 12月の第一主日の礼拝で退院後初めて説教の奉仕を再開しましたが、さすがに時期尚早の感がありました。いわゆる抗がん剤の治療はなく定期的に経過観察をすることになりました。クリスマス礼拝から体力を持ち直して、現在、C-BTEアンテオケ・スクールの次世代リーダー養育の訓練を受けている兄弟が月に二回の礼拝説教を奉仕してくださり、教会員の信頼を受けております。
 現在の体調はすこぶるよく、無理をしない範囲で通常の教会奉仕をしております。これから三か月ごとの精密検査の経過観察ということになっております。むしろ教団の様々な責任から病気を理由に解放されて、教会の次世代リーダー育成と震災支援に専念できて極めて元気であります(教団関係の先生、ごめんなさい)。
 妻も震災の前の年に大腸がんの宣告を受けて現在治療中であります。おかげさまで妻の方は今年で四年目になり再発もなく経過は順調に回復しております。夫婦そろって癌になることに摂理の神の働きがあると信じております。
この度の入院手術の時、JEA宣教委員会のホーリネス教団の中西先生がわざわざ手術の前日に病室まで訪問してくださりお祈りをしてくださいました。また、術後三日目に、まだ起き上がれない状態の時にも同委員の永井敏夫先生が病院に訪問していただき励ましていただきました。すっかりJEAの末松先生はじめ宣教委員会の先生方に牧会をしていただいた感じです。
また、相模大野バプテスト教会牧師で、私の神学校の恩師である中澤啓介先生より、今後の私のライフワークと教会の今後について適切な助言をいただきました。東北の仙台バプテスト神学校校長の森谷先生、YSP21代表の中澤竜生先生、国分寺バプテストの米内先生からも励ましのメールをいただき、また石巻祈りの家の阿部代表などがこまめに活動の様子のニュースレターやFace Bookなどを通してしらせてくださったり、C-BTEの仲間の山形の先生からも入院療養中の留守の教会の礼拝説教の奉仕の応援も申し出てくださった先生もおられ、病気の中で気の弱くなった自分に大きな励ましをいただきました。このような親密な関係をもてたのもひとえに震災支援という共通の問題を共に担っているという同労者意識であると思います。また入院前後の一人静まる時を神さまから与えられ、これまでの奉仕と今後の生き方について取り扱われる貴重な経験をさせていただきました。
福島のキリスト教連絡会の木田信嗣先生や住吉先生などにご心配とご配慮をしていだき誠に感謝です。福島の宣教フォーラムをドタキャンのような形となってしまいましたが、代わりに突然の講師依頼を引き受けてくださいました同盟教団の朝岡勝先生がすばらしい講演をしていただいたことに安堵しました。福島の先生方、教会の皆様、誠に申し訳ありませんでした。
今後は、神さまに自分の時を握られていることを覚え、またこの機会に教団の様々な働きは次の世代に委ねる機会として、神さまから足下の教会の次世代指導者の育成と震災支援とそれに係わる神学的な研鑽に自分の時を注ぎたいと思います。また「宣証」という課題の実証の活動をしながら、被災地の中で苦闘している先生方や教会を励ます働きをしたいと考えております。
イザヤ58の支援者の皆様、まだまだ岩手、宮城、福島の復旧と被災者たちへの支援が必要であります。私もできる限り支援活動に係わる所存です。ご理解とご支援を引き続きお願いいたします。
そのようなことを踏まえ、イザヤ58の年度の会議を以下のように開催します。支援関係者の先生、福音伝道教団の支援に係わった信徒の皆様のご出席を賜り、今後の支援方針についての意見交換をしたいと思います。ぜひご出席ください。

日時:3月1日(土)午前11時より

場所:福音伝道教団佐野オリーブ教会

なお、昼食を用意しますので関係者の皆様の出席の有無をお知らせください。