2011年6月16日木曜日

南三陸町にて


 今回、私たちは南三陸町に入りました。行く途中、青い空、緑の田園地帯、青々と茂る沿線の木々を縫って、牧歌的なドライブでした。しかし、山を越えて、谷間の道を進むにつれて、山の斜面に張り付いたような自動車の残骸、山の中の道なのに、横の川には、漁船の残骸、土手から垂れ下がっている線路のレール、それが海岸から3キロも山に入ったところから始まります。更に視界が開けると、その光景に、私たちは絶句してしまい、車の中は沈黙が支配します。どうしたら、こんなに車が鉄の塊のようになるのか、すさまじい破壊力です。
 その中を縫うようにして、高台の住宅街を目指しました。一見、普通の住宅団地ですが、そこに命からがら避難して来た人々の避難所があります。
 今回、私たち13名のチームは、三陸町の旭が丘という地区に、以前から頼まれていた、衣料品、そして必要と思われる赤ちゃんのミルク、など物資を持って行きました。物資を支援するのも大事な支援ですが、今回は、被災した人たちとの関係を更に深めるための働きです。物資を一人ひとりに渡しながら声をかけていく。更に、必要な物を尋ねていく。
 被災してから三ヶ月、被災した人たちは、こちらから無理に尋ねるのではなく、自分から、被災の状況をなまなましく語り始めます。今、彼らは黙っていられないのです。自分の津波から逃げてきた恐怖の体験、家族を失った悲しみ。一人の婦人にズボンを渡すとき、恐縮して受け取ります。でも、「大変でしたね」と語りかけると、自分のことや家族を失ったことを語り始めます。
 今回、私たちのチームには、整体師、臨床心理士、英語の先生、保育士など、震災の家のそうじや片付けではなく、語りかけていくことが中心でした。
 マッサージを受けながら、体がほぐれていく中で、心がほぐれていく。そして、自分のことを傍らにいる私たちの聞き役の者が聞いてあげる。今までとは違った支援でした。
 震災の時、生まれた赤ちゃんを抱いた若いお母さんが、持って行ったミルク、赤ちゃん用の服、「女の子なので、ピンクのが欲しかった。うれしい・・・」と大切そうに持って行く。
 近くの公園で、子どもたちと遊んでいるメンバー・・・。
 何を報告していいか分からないくらいの経験をした。被災した人たちに見送られ、高台から降りていくと、再び、荒涼とした景色が目の前にある。そして、目をあげると、本当にきれいな澄んだ青空が見える。
このギャップにまた、絶句してしまう。(掲載した写真は、役場の女性職員が津波が来るのを最後までアナウンスして亡くなった防災センターの建物です)

1 件のコメント:

  1. 被災した方々のために祈り続けます。
    数え切れぬ痛みと悼み・・・。私たちは忘れません。
    今日を生き、明日を待つ人たちのために、何とかして共に歩みたいと思います。

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