2011年6月14日火曜日

生きることが福音

 今、支援のため、仙台の町の郊外の支援拠点の神学校の寮にいます。
私たちは、昨日、前回支援に行った、石巻の家の教会を地元でやっている信徒伝道者のA兄の家を訪問しました。普通の、きれいな家の入り口は、本来だったら自動車が二台は駐車できるスペースに、移動式簡易シャワー室が二つ設置されて、近くの避難所などの方々が自由にシャワーを使えるようにしてあるとのことでした。
 そのシャワーを使いに来た方に声をかけ、「食事はとれた?」「おにぎりを食べました・・」。「よかったら食事をしていきませんか?」。「何か必要な物が何かありますか?」と声をかけています。
 行政の物資の支援はあるそうです。彼らは「どこの世帯にも平等に」という原則だそうです。しかし、その「平等」の原則が「不平等」を生み出しているそうです。
 どの世帯にも、たとえば配給する時、缶詰が2個、水の1リットルボトルが一本といくつかの食料をセットで渡します。
しかし、均一に世帯ごとに同じ量を渡すのが原則なので、世帯の家族数が省みられません。
5人家族でも、二人でも同じ量です。そこに不平等が生まれ、その平等性の原則が、人間関係にきしみを生んでいるそうです。そこで、そのA兄たちは、避難所や被災家庭を訪問し、一人ひとりに必要を尋ねて、できるだけ、手渡しで渡す活動をしています。シャワーを提供して、来た人に食事を用意してあげる。特に聖書の話はしません。そのような中で地域での信頼性を築いていくのです。
 私たち支援者は、数日活動して、そしていなくなります。しかし、A兄たちは、そこに生活していくのです。大事なのは、共に生きる隣人としての生活の姿です。
 東北地方では人間関係の段階がいくつかあるそうです。まず「よそ者」の段階、次に「顔見知り」、そして「身内」・・・。
 今回の震災前、キリスト教は、所詮、「よそ者」宗教だった。しかし、今回の震災での地元の教会やキリスト者たちが地域の人たちに言葉ではなく、A夫妻や小さな家の教会のメンバーのように、共に生活者として寄り添う姿勢を見せています。ここで初めて、キリスト教は「教会さん」と呼ばれ、「顔見知り」の段階になれたと思うと被災地域のクリスチャンは思っているそうです。
 「生きることが福音なんだ・・・」。この言葉が強く心に響いています。
 今日、私たちは南三陸に行きます。今回は、震災の後片付けではなく、被災者に声をかけ、心を開いてもらって、彼らが心開いて、自分たちの必要を話せるようになるための糸口づくりです。マッサージをしてあげたり、子どもとゲームをしたり、物資を届けて、話を聴く、更に、必要について聞いていく。
いままでような肉体労働中心の支援ではなく、人間関係の最初の入り口づくりです。地元で生きているクリスチャンが「顔見知り」の存在であるための活動の入り口づくりです。
 
 

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