休暇の佐渡の妻の実家でブログアップの原稿を書きました。ちょっと忙しかったのでしばらく間が空いてしまいました。けっこう、教団以外の先生方や宣教団体の方々が読んでくださっている方がいて感謝です。
さて昨年、南三陸の支援に関わる仙台SBS(仙台バプテスト神学校森谷師)、かけ橋(聖協団、中澤師)、子供支援ネットSOLA(バプテスト教会連合国分寺バプテスト教会、米内師)、南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク(聖協団目黒教会、横山師)、聖協団清瀬教会(菅谷氏)の諸先生と共に、従来の福音宣教の考え方と違う切り口で被災地の宣教を考える宣証ネットワーク、YSP21がスタートしました。
そして、小さいものでありますが、昨年のローザンヌ日本員会宣教シンポジウム、JEA総会シンポジウム、第三回東日本大震災国際神学シンポジウムの分科会で鈴木が理解する宣証について講演させていただきました。
最近、リバイバルを強調する超教派グループのニュースレターが送られてきました。代表的な先生が巻頭メッセージの中で「宣証」という言葉を使ってメッセージが記されていました。JEAや国際神学シンポジウムで「宣証」という言葉をあえて使用させていただきましたが、接点のないリバイバル系のニュースレターに登場したことには、多少の面映ゆさを感じました。「え、この先生まで使い始めたの?」というのが率直な感想でした。
しかし、その先生のメッセージを読み、その宣教団体の活動方針やスタイルを考えると、私の理解する「宣証」とちょっと違うかなとも思いました。もちろん、新しい小さな支援ネットグループYSP21が言いだしたことなので、いろいろな方が、それぞれの様々な概念を持つことは当然のことです。YSP21の仲間の中でも森谷流宣証論、中澤流宣証論、米内流宣証論、そして鈴木流宣証論があっていいでしょう。
いま、盛んに聖学院大学のメインラインの先生方や福音派の中でも「ホーリースティックな福音」とかローザンヌが発信している包括的福音という概念も、それぞれが重なる部分もあれば、ちょっと違う視点があるわけです。そして「宣証」をそのような福音理解の延長の中で理解する方もいるかもしれません。
「鈴木先生、『宣証』と『宣教』と何が違うのですか、なぜ『宣教』と使わず『宣証』と言うのですか」とよく聞かれます。ちょっと禅問答のような言い方ですが、「『宣教』というと、『救い』というテーマを中心にして語られ、欧米の宣教論の発想がどうしてもついてまわるので、そこから違う視点から理解してもらいたい。そして『宣証』という言葉は支援の現場から始まっています。それぞれの先生の支援や教会の活動の現場から入っているので、目のつけどころがそれぞれ違う部分があります。たとえていうと一つの森に入るのが森谷口から入っていく道、米内口という入り口、中澤竜生口と言われる入り口、そして小さな入り口である鈴木口があるのです。更に「『宣教』は聖書から入ってから対象に向かって働きかけていきますが、『宣証』は対象の現実、生活、社会の課題から入って聖書を出口とするアプローチです」と。本人もわかっているのかハッキリしないトボケタ言い方になっています。
この辺の禅問答的神学理解はどこからきているかというと私の恩師の大野キリスト教会宣教牧師の中澤啓介先生の「被造物管理の神学」、いわゆる中澤神学の影響があると思います。脱線になりますが、ぜひ中澤師の「被造物管理の神学」に牧師たちは注目していただきたいと思っております。私の「宣証」の理解はそのような神学の影響があることは事実です。
しかし、いろんな入り口なのですが、おそらく、YSP21の先生方に一つ一つ確認はしておりませんが、それぞれ「宣証」という言葉の使用に同意している先生方の働きや語っていることで共通していることがあるということは私なり推察して言えます。
それは「『宣証』とは何でないか」ということです。
第一に、「宣証」は震災支援をきっかけに始まった目に見える教会員の数が増える教会成長論や伝道論ではないということです。
震災支援の始まった当初、「リバイバルのチャンスだ」という声を聞きました。そういう部分もあるかもしれませんが、そのリバイバルとは何かと考えた時に、震災前の東北の教会が30名前後の教会が平均、あるいは自立さえ困難な教会があったことを考える時、それがたちどころに40名、50名、1000人の教会となる被災地の教会成長論ではないということです。
JEA総会でシンポジウムなどでの私の講演が終わってから、多くの先輩先生方から、また宣教団体の方から講評や質問をいただきました。その中で、教会成長に熱心な若い先生から「鈴木先生、とても貴重な発題ありがとうございます。これで、さぞかし、先生の教会も成長間違いなしですね」と言われました。思わず苦笑いせずにはいられません。なぜかというと、私どもの教会も、教団も相変わらず牧師に献身する人の減少、教会学校の子どもの減少や教会会計のやりくりに悪戦苦闘しています。余裕で支援活動をしているわけでもないし、「宣証」ということの理解を牧師がもてたからといって、自分の教会の受洗者が震災前に比べて倍になりましたなどとかっこよく報告できるわけではありません。苦労は相変わらずです。要するに「宣証」によってたちどころに教会が倍、倍ゲームのように成長するような魔術的な力はないということです。
また大きな教会へ、大きな教会へと信徒を動員する「繁栄の神学」に基づいた教会成長論ではないということです。
第二に、「宣証」の最大関心事は、「何を語るか」から始まっているのではない。まず相手の必要、考えに対してディベートから始めるのではなく、まず相手の生活スタイル、考えをまず尊重することから始まる。キリスト教以外の宗教を断罪視しない。
今年の2月に、JEA,TCU,聖学院大学、その他支援団体共催の第三回東日本国際神学シンポジウムが開催されました。メインの講師はフラー神学校の教授たちでした。そこで、私も 「宣証」について分科会でお話をさせていただきました。
要点をまとめると
1. 私たちのキリスト教の宣教は欧米の神学の影響を受けている。明治時代以来、キリスト教は西洋の宗教と多くの日本人が考えている。日本の文化脈化で大事な事は、異教社会の中で対話力を持つ事が大事である。
2. 偶像崇拝である日本の宗教を「悪霊」視した考えだけでは対話が成り立たない。
3. 「宣証」は「・・・ism」ではなく「・・・ist」に関心を持つ。これはYSP21の諸先生の問題意識を鈴木流に神学した結果です。アジアの文化の中で福音の真理を問いかけた名著「水牛神学」(著:小山晃佑/教文館)の中にある「仏教(Buddhism)ではなく仏教徒(Buddhist)に」という項目の中で小山師は以下のようなことを述べています。
<仏教徒を理解したければ仏教を研究しなければならないことはいうまでもない。しかしながら我々の究極的な関心は仏教徒を理解することに向けられるべきで、仏教の理解ではない。キリストの福音にとって肝心なことは仏教ではなく、仏教徒である>。
4. 東北の素朴な仏教的な信仰を持つ人たちの使う言葉、理解する言葉での中で語られることが大事である。
「宣証」は他宗教に対してキリスト教を対抗させるためにメッセージを発信するところから始まっていない。ということです。最大関心事は、まず相手の人格に「寄り添う」ことからスタートします。私たちの持っている教えを伝えることから始まるのではなく(注:語らない、伝道しないということではない)、相手の言葉のフレームをまず理解する事から始まります。
ユダヤ教のラビの問答に「誰もいない森の中で大きな木が折れて倒れた時、その音はするか」というのがあるそうです。みなさんはどう答えるでしょうか。「音はする」でしょうか「音はしない」でしょうか、そしてなぜそう答えますか?
答えは「音はしない」です。「音は誰か聞いている者がいた時に初めて発生する。聞く者がいないなら音はしない」というものです。
私たちは今まで、伝道するといいながら実はキリスト教会の中だけしか通じない言葉を使ってはいなかったでしょうか。実際に、様々な社会的出来事に対してキリスト教会が発信するメッセージは教会の中ではわかるが、一般社会の中では何も効力のない、また一般社会ではわかりにくい言葉で発信してはいないでしょうか。震災支援は、そのような意味で「キリストの愛」とか「隣人を愛する」というメッセージがわかる言葉として発信できたことではないでしょうか。
「宣証」を使うけど「宣教」は使ってはいけないなどというものではありません。そうではなく、この機会に、我々が福音というものをどう理解しているのか、そしてそれは本当に正しい福音なのかということを、支援活動を通して学んだ本質的なこと考え、どう自らの遣わされている日本の様々な地域にある教会の形成に役立てることが大切ではないかと考えます。
「宣証」は被災地でも、また私が牧師として奉仕している教会でも、まだ実証されているものではありません。しかし、日本の教会は震災を通して多くのことを問われていると思います。震災支援の経験を一過性のものにしてはならないと考えます。
同時に、被災地で支援と伝道の関係を神学することは、多くの教会の指導者が感じている日本の伝道の閉塞感を打ち破るためには、今までの当然と思われていた宣教(宣証といいながらこのように宣教という一般的な意味で使用していますが)の方法や福音の理解と提示の枠組みを根本から問い直す機会となればと願っています。
これだけ多くの犠牲者がでて、これだけ多くの人的、物的材を支援に注ぎながら、その経験から何も学べない教会であるなら、教会は多くのことを問われるであろうと思います。